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文化の根本的な違い(日本語の文化) |
こうしたルールは、私たちが日常かかわるどの場面にもが付随しています。それは、日本のみならず、どの外国の文化でも同じことでしょう。それぞれの日常のルールこそ違え、日常の場面が多くのルールで構成されているという事実自体はどの文化においても変わりがありません。
しかし、日本語文化と多くの英語圏の文化圏とではいくつかの点で大きな違いが存在することも事実です。
まず、もっとも顕著な違いは、日本語の文化では日常の場面別ルールが徹底しており、ルールの遵守が厳しく求められるのに対し、英語圏ではルールが比較的に緩やかであるということです。この違いはコミュニケーションを実際に行う上で会話の根本的なスタイルの違いを生み、その違いが日本人の英会話の伸びを止めてしまうことにもなります。
日本語の文化では、集団の和と調和を保ち、個人が集団から突出しないことが重要であると考えられています。これは、各人が場面別ルールを遵守し、自分に与えらた立場をわきまえて行動することが求められることを意味します。具体的にはこれは、たとえばあなたの立場が「営業マン」であるなら、「営業マン」としての立場に一貫した会話や行動が強く求められ、本来の自分を出すことは強く慎まれるようになることを指します。自分を強く出すと、「わがまま」「自分勝手」「社会人としては不適切」などのレッテルを貼られることになりかねません。
これは何を意味しているのでしょうか?それは、個人がそれぞれの場面で与えられた立場に埋め込まれていることを意味します。このことから、立場に一貫した「建前」と、それとは異なる本来の自分の考えである「本音」との乖離が生じることにもなります。
日本語の文化で教育を受けた私たちは、こうした場面ルールに従って話し行動することで集団の和を保つことを徹底的に教育で教え込まれてきているというのが現実です。日本の学校教育の目的の一つは「らしさ」の徹底した習得ではないかと思います。現在ではもはや失われつつあるかもしれませんが、「中学生らしさ」「先生らしさ」「父親らしさ」など、与えられた場面のもとで立場をわきまえて行動し話すことをトレーニングされます。これは、私たちがどんな場面に置かれても、場面を正しく判断し、場面ルールに従って行動することが、日本の社会生活では大変に重要であるからにほかなりません。
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文化の根本的な違い(英語圏の文化) |
これに対し英語圏では、集団の和を保つことは絶対的な規範ではなく、むしろ個人がそれぞれ自分の責任や義務をきちんと遂行することこそがもっとも重要であるとみなされます。集団の全体的なまとまりよりも個人としての目的や責任を優先させるのが当然と考えられ、たとえ個人の目的や責任の遂行が全体の調和を失わせることになったとしても、個人を優先します。この結果、場面別ルールの拘束性は比較的に弱くなり、どのような場面のどのような立場においても「本来の私」として表現する余地がかなり残ることになります。よく会議などで、ネイティブが「…の立場では…だが、私の個人の考えとしては…だ」と「個人の立場」を前面に出すことがよく見受けられますが、これがこのよい例でしょう。
これは言い換えれば、個人が場面のルールの拘束から比較的に自由であり、どのような場面でも個人として自分を表現する余地がかなりある、つまり、「場面」には完全には埋没してはいないということを意味します。その証拠に、日本語の文化では個人の呼称が「私」「俺」「弊社」「自分」などと「場面」と「立場」に応じて変化しますが、英語圏では「I」のみです。自分がどんな立場であっても、「I」、つまり「私」として表現します。