いま何が起っているのか?

高島康司
2006年12月22日

1)序

A.激変しつつある世界


世界は激変しつつある。世界にはわれわれが慣れ親しんだような確実性はもはや存在しない。そこは予期できないことが次々と起こりえる不安定な場所と化してしまった。

戦後60年の長きにわたって社会を支えてきた基本的なシステムが崩壊し、平均化したライフスタイルを享受していた国民が、負け組みと勝ち組という数年前までは聞いたこともないカテゴリーに強制的に分類され、あらゆる面において自己責任で生きることが問われる現代の日本にあっては、このようにいうことは何の驚きも喚起はしないはずだ。変化はすでに当然のこととして受け入れられ、むしろあまりに急速な変化に乗り遅れないでついてゆくことのほうがはるかに重大な関心事である。

ましてや、国連を中心とした集団的意思決定のシステムなど、第二次大戦以降世界を長らく支えてきた基本的枠組が米国の一方的支配によって崩壊し、何の規制もない力のルールが横行しつつあるときに、世界が激変していると改めていうことにはさほどの意味はないと思われても仕方がない。それは同時代を生きる多くのものにとってあまりにも当然の認識となりつつある。

B.生活世界の実感の変化

だがここで世界が激変しつつあるということで言いたいのは、このようなことではない。誰の目にもはっきりと見える表層の変化や、そうした事態を引き起こした明白な事件の系列などを指し示そうとしているわけではない。そうではなく、ここで本当に問題にしたいことは、われわれの日常から安定感が失われ、生活世界の実感、つまりは生活世界に関するわれわれのイメージが根本的に変化してしまったということなのだ。

それは単に9月11日以降、原理主義者によるテロリズムが横行し、何の予告もなくわれわれの日常が破壊される脅威が増大していることを言いたいのではない。日常的な世界が災害や戦争、または巨大な事故などによって実際に破壊される可能性は、低い確率であったとしても過去ずっと存在してきたし、いまも存在している。どんな生活世界でも、それが破壊され得るものであり何かの出来事をきっかけとしてめちゃくちゃになる可能性があることは、この世界に住まうものが認識している自明のことである。日常が突如として不安定になり得る可能性は生活世界にはすでに織り込み済みである。したがってテロリズムの大きさだけで生活世界に関するわれわれのイメージが根本的に変化してしまったとすることはできない。ここで言いたいことはこうしたことではない。変化はもっと別な種類のものだ。生活世界の基本的イメージが変化してしまったのである。

これがどういうことなのか明確にするためには、まずは戦後60年の発展を支えていた日本型資本主義のシステムがどのようなものであったのか確認しなければならない。社会的な状況の変化がこれまでになく早いため、変化の方向性を見極めるためにはもっとも基本的な概念の確認から出発する必要があるからだ。

C.戦後の社会システム

80年代の終わりに全盛期を迎えた日本型資本主義のシステムは、以下の特徴によって支えられていた。

@ 終身雇用と年功序列を機軸とする日本型雇用システム

A メインバンクとの金融的な結びつきを背景にした長期的な信用関係

B ケインズ的経済政策を主体とした政府主導の旺盛な公共投資

C 地域と政治家とのインフォーマルな関係によって決定される公共投資を通した富の再配分システム

@によって労働者に雇用の安定を約束した企業は、Aのメインバンクとの長期的な信用関係の構築によって息の長い設備投資が可能となり、さらにBの政府主導の公共投資によって国内の有効需要が保証されたため、巨額な設備投資の危険度が低く押さえられ、一定の利潤が保証された。

このようなシステムは、労働力の外部市場から必要な労働力を雇い入れ、必要がなくなればこれを解雇するという、絶えず変化する市場への対応が迫られる競争型のアングロサクソン型の資本主義にくらべ、はるかに長期的な経営、投資戦略を可能としたため、企業の安定成長を保証した。

さらに、公共投資が経済の牽引力になることは、国内景気を刺激するだけではなく、投資が行われる地域を選別することで、政府自らが地場産業を強化する地域を選択することができるようになった。これは、所得の低い地域に投資を配分し所得を引き上げるという効果をもたらしたため、日本型の所得再配分システムを作り上げた。

しかしながら、公共投資の地域別の配分は、明白なルールに基づいた機構を介して行われるのではなく、政治家や官僚のインフォーマルな人間関係を通して決定されたため、投資の決定に関与する人間達がそこから利益をかすめ取るという、腐敗した関係を恒常化することにもなった。

しかし、政治的には腐敗の構造を抱えながらも、総じて日本社会はこうしたシステムがうまく機能している限り、完全雇用とまでは行かなくてもかなりの高水準の雇用が保証され、また、市場や世界経済の変化にかかわらず、どのような状況においても一定程度の成長率を確保することに成功した。それは安定した社会であった。

D.安定した生活世界

このように、高度な安定が保障された社会では、同じく安定した生活世界が展開した。それは生活の営みを組織化する次の三つの共同性を前提に成立した。

企業の共同性

企業による従業員の長期的な雇用保証は、当然のことながら企業を共同体に近い状態に組織化する。毎年の学卒者の新規雇用や定年退社を除き、社員の中途入社や退社がほとんどないため、メンバーの顔ぶれは固定化し、彼らの間に長期的に安定した人間関係が成立した。人間関係は、企業の指揮命令系統にしたがって上司―部下の縦の水準で組織化されたフォーマルな人間関係と、同期入社などを通して結ばれた仲間としての、横のインフォーマルな人間関係の二つの軸で構成された。しかし、いずれの人間関係においても、正規のメンバーとして認められるためには、会社に対する最大限の忠誠心が要求されることでは変わりはなかった。反対にこれは、終身雇用制のもとでは自ら退職を選択しない限り、会社に忠誠さえ誓ってさえいれば職は保証されることを意味していた。

専業主婦の共同性

夫が日常のほとんどの時間を企業で費やすことが期待される一方、サラリーマンの妻には夫や家族を支える専業主婦としての役割が期待された。やむをえない場合を除いて、結婚した女性が社会に出てキャリアを積むことは期待されていなかった。

家にいることを半ば強制された専業主婦は、同じ状況に置かれている他の専業主婦と地域内で主婦の共同性を形成した。共同性は、学校のPTA、団地や住宅など住まいの周辺エリアで自然に発達した。そこでは、生活に必要な多様な情報が交換されるだけでなく、もっとも負担の大きい子育てを参加者全員で行う共同性が形成された。いわゆるママさん共同体である。

学校の共同性

このような共同性に親が包摂されると同時に、子供も学校の共同性に包含されることが期待された。

学校では、終身雇用制のシステムで長期間働くために必要となる規範化された行動形式が教師によって媒介された。相手に対して敏感に反応し、相手の期待をどんな状況でも裏切らないように自分の行動や発現を柔軟に調整する作法などを徹底して教え込まれた。

他方、学校には生徒同士の横のつながりも存在した。上記の教師との関係がフォーマルな縦の関係であるとするなら、これはインフォーマルな横の関係であった。ここでは、他者に対する配慮、自分の欲望や感情をコントロールする方法など、子供は所属する集団から逸脱しないでうまくやってゆくためのもっとも基本的なルールを身につけた。その意味で言えば、規範化したフォーマルな行動形式がうまく子供に根付くかどうかはインフォーマルな関係がうまく機能しているかどうかにかかっていたといってもよいだろう。

安定性の基盤と人生の予測可能性

われわれのかつての生活世界は、このような三つの共同性の強度の安定性によって支えられていた。他方、これらの共同性が安定していたのは、終身雇用のもとでサラリーマンの人生が年齢ごとに標準化し、人の将来が予測可能になるほどにまで不安定要因が生活世界から排除されたからにほかならない。

終身雇用は年功序列とともに制度化された。年功序列のもとでは、年齢とポストが相関し、一定の年齢になるどのくらいのポストに就くのが適正なのか、標準化した理解が成立した。それぞれのポストには当然年収が対応した。このため、年齢-役職-年収の三者が相関し、これにより人生のそれぞれの段階で期待できる生活水準が対応するようになった。

このシステムのもとでは人は、いったん企業に雇われると人生の終着点までほぼ予想可能となってしまう。自分が40歳になったときには、どのくらいのポストに就いてどのくらいの権限を持ち、そしてどのような家族構成でどのような家に住んでいるか、かなりの的確さで見通すことができる。大卒で入社した24歳の若者が、45歳の自分の人生を予想することも何ら不可能なことではなかった。

本来、人生の経験は個々人によってそれぞれ多様な偏差があってしかるべきだ。仕事で能力を十分に示すことが出来ず降格を余儀なくされた失敗の人生もあれば、よき上司に恵まれ出世が約束された人生もあるだろう。

さらに、どの個人の人生にも、事故や病気、そして突然の死など、予想の範囲を超えた出来事が発生し得る可能性は十分にある。これは当然だ。予想不可能な事態の発生によって、人の人生は幸福なものにも、また不幸なものにもなり得る。

ましてや、規則的に好況と不況を繰り返す資本主義経済では、経済の変動によって個人の人生が翻弄されることは当たり前のことだった。従業員の雇用と解雇はその時々の労働力の需要に依存して決められる。これは労働者の賃金も好況期と不況期では大きな開きがあることを意味する。労働力の需要が増大する好況期には、労賃は相対的に増大して可処分所得が増え、逆に不況期には労働者は解雇され可処分所得は極端に減少する、というようなあからさまな変動を繰り返していた。このような状況では、個々人のちょっとした運や不運が人生の行方の大きな違いにつながることもまれではないはずだ。本来、人生は成功と失敗が交差する不安定なものであった。

それが終身雇用では、年齢-役職-年収の相関のもとで個々人の人生が標準化され得るのである。人生の成功や失敗は、50歳になったときに部長なのか室長なのか、または本部長代理なのかという程度の微細な差に還元されてしまうほど平均化されてしまう。

さらに、終身雇用は単独で存在しているシステムではないことも人生の偏差を最小化することに役立った。終身雇用は、社会保険、年金などの国家による社会保障の全体的なシステムの一部であり、これによって補完されたシステムであった。国家が提供するサービスと、退職金や福利厚生などの終身雇用が提供するサービスが一体化することで、生涯にわたる手厚い保障が可能となったのである。

この保障システムでは、それぞれの人生で発生し得る幸不幸の極端な個々人間の差は最小限に抑えられ、たとえそのような事態が発生したとしても様々な保証制度の作用を通して、突発的な事態が大きな差の形成に至らないように平均化されてしまう。予想不可能な出来事に対する強い弾力性をこのシステムは持っていた。発生する出来事が事故や病気など、想定できる出来事の範囲内である限り、終身雇用のもとでの人生モデルはそのまま継続し、予測された人生は大きな変更を迫られることもなくそのまま個々人のモデルとして妥当した。そこに出現したのは、20代から死までの人生の行程を見通すことができ、あらゆる出来事が標準化され、モデルに影響を与えないように徹底的に管理された生活世界のあり方であった。これが安定である。

場面のルール

けれども、この安定した生活世界はどんな人間も参加できたわけではない。生活世界の正規のメンバーとして受け入れられるためには、この世界が要求する条件を満たしたものだけが入ることを許される。その条件とは個人が十分に社会化されていること、つまりは社会人として一人前のとして認められるような行動の規範を身につけている、ということだ。これに比べれば、学歴などの他の条件の重要性は劣るのかもしれない。

社会化が十分にできているというのは、どういうことだろうか?それは、日常の場面における個々人の行動や振る舞い、そして言動が、他者が予想可能な範囲で行われるように、その個人が訓練されているということを意味する。そしてこれは、社会的な場面において作用する厳格なコードの存在とその身体化によって可能となった。

生活世界は、人間の生活を可能とするものであるだけに、それが営まれる場面を提供する。それぞれの場面では、これに所属する人々の行動を強く規制するコードが存在していた。これらの共同体はそれぞれ固有の生活世界を構成しているが、コードかこうした生活世界が内包する社会的な場面を通して作動するようになっていた。社会的な場面には「仕事」「レジャー」などの基本的なカテゴリーへの分岐から始まり、「友人との飲み会」「クライアントとの交渉」「学校の授業」など、われわれの日常を構成するより具体的な状況へと細分化されてゆくが、どの場面別の状況も以下の構成要素からなっている。

@立場
状況における主体の立場
A言葉遣い
立場と合致した言葉の使い方
B振る舞いの原則
特定の立場を持つ主体に要求される期待値としての行動
C服装の原則
主体に期待されるふさわしい服装

この原則に一致した行動はおのずから「中学生らしさ」「営業マンらしさ」「サラリ−マンらしさ」などの「らしさ」をおのずからかもし出す。「らしさ」を身につけることは、個人が社会的に信頼にたる存在であることの証となる。「らしい」存在は、コードの適用によって相手の期待を読み取り、それに合わせて行動を調整するというような、行動や言動のシンクロナイジングができるものと期待された。

生活世界に参加し、その世界のメンバーとして向かい入れられるためには、こうした条件を充足することがもっとも重要であった。会社の共同性においては、個々人のパーフォーマンスにはさほど大きな重要性は置かれていない。個人の差をとことん縮小することにポイントがある終身雇用では当然のことであろう。むしろパーフォーマンスよりも、社会的な場面コードをとことん身体化させ、どんな場面においても相手の期待感を絶対にはずさない行動を取れる、高度な社会的技能を獲得しているほうがはるかに重要であった。コードと個人の一体性が深ければ深いほど、会社の共同性だけではなく生活世界でも個人の信頼性は高まった。

三つの「らしさ」

社会的な信頼性の獲得は、「らしさ」を限りなく追求する行為となって現れた。社会の場面コードは、「サラリーマンらしさ」「営業マンらしさ」「中学生らしさ」などの大まかな分類を超えて、「住友マンらしさ」「トヨタマンらしさ」など個別の企業の場面ルールにまでさらに際限なく細分化されて行った。その企業の従業員は、企業の一員である限り、振る舞いや話し方、そして服装にいたるまで、その企業の正規のメンバーである印を身体に刻印していなければならなかったのだ。これを第一の「らしさ」と呼ぼう。

この第一の「らしさ」は、個人がもともと個性として持っている偏差を除去することで出てくる。営業マンはあくまで営業マンとして振る舞い、客に接することを徹底して訓練されることで社会的に信頼される「らしさ」が出てくる。これは個人がその人生経験でできあがった個性が「くせ」として徹底的に除去され、社会的規範の中で許容されている人格の類型へと組み入れられるからにほかならない。つまり、社会の場面ルールに個人が完全に埋め込まれることで生まれてくるのがこの「らしさ」であるということだ。

予測可能性を脅かすものすべてを脅威として認識するこのシステムにあっては、個人の経験の蓄積が作り上げた個性も、それが予測を超えたユニークな振る舞いの基盤になるという意味で排除に対象になった。それは事前に徹底して調整してシステムに内化し、無力化するための対象であった。第一の「らしさ」の生産は本来の個性を代償として行われた。

そうであるなら、この「らしさ」を追求することは個人にとっては決して快適な行為ではなかったはずだ。ではなぜ人はこのような第一の「らしさ」の追求を積極的に受け入れ、過剰なまでに一体化したのであろうか。

その答えは簡単だ。規範に一体化し、与えられた「らしさ」を身につければつけるほど、その個人は所属する組織のもっとも信頼できるメンバーとして受け入れられ、その結果、終身雇用のもとで提供されるあらゆる保障を享受できる権利を手に入れられたからだ。一言で言えばどんな人も「ひたすら我慢して耐えているなら最後には報われた」からである。

ところで、個性を除去する第一の「らしさ」でも発現が許された個人の「らしさ」が存在した。これは、一度社会的規範に組み入れられた個人が、与えられた役割を演じ、それを幾度と無く繰り返す過程で必然的に産出されてくるズレとしての「らしさ」だ。45度の角度のお辞儀や「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の掛け声はどんな接客業でも徹底して訓練するが、それぞれの個人がそれを繰り返すことで、最初はみんなほとんど同一であった振る舞いにも、個人の間のちょっとした違いが出てくるようになる。それが個人の「らしさ」になってくる。これが第二の「らしさ」になる。

これは、平均的な振る舞いや行動からのズレとして必然的に生じてくるものだ。個々人のちょっとした歩き方や話し方の相違、それにしぐさや癖に人はその人らしさを嗅ぎ取り、その人独特の「らしさ」を見出す。「山本君らしい」とか「三浦さんらしい」、または「矢部君らしくない」というのはそうした個人の規範からのズレを手触りとしてわれわれが感じているからにほかならない。これは、先に説明した第一の「らしさ」とは根本的に異なる「らしさ」のあり方だが、それが第一の「らしさ」の循環を前提にして発現するズレであるということでは、社会的規範の脅威とはならない。システムはこれを許容する。

しかし、これの対極にある本来の個性とユニークさ抑圧されていることをわれわれは忘れてはならない。ユニークな自立した個人として自分の人生を生きる個性的な「らしさ」は確実に存在しているのだ。

自立した個人の世界では、自分の人生の意味は、いわば個を超越したところに存在している社会的な規範から一方的に与えられることはない。自分の自分自身に対する自己定義の過程を介して発見されるべきものとされた。つまり、自分がどのような存在として自分を見いだすのか、つまりは自分にどのような価値を発見するのかは、個々人それぞれが行う意味の発見の行為の結果として存在するはずであった。人生の意味は個人の手に完全にゆだねられている。こうした「意味」が個人の「らしさ」の原点にあるものだとするなら、この「らしさ」は「個の積極的なユニークさ」と呼べるものだろう。

おそらくこの個としてのユニークさを希求する欲望は普遍的なものであろう。それはどの人間も持ち合わせているもっとも基本的な欲望かもしれない。これをユングとともに「個性化」と呼んでも差し支えない。われわれの分類から言えばこれが第三の「らしさ」になる。

ところで、第三の「らしさ」は、第二のそれと基本的に大きく異なっているわけではない。両者は、それが規範や他者とのズレの感覚から生じるという意味では元は同じである。

個人が自らのユニークさを感じるのは、他者との差異を通してである。個人が社会的な存在として社会システムの中で何らかの機能を担うように包摂されると、かならずそのシステムに特徴的な社会的規範へ同一化することが迫られる。同一化した個人の社会的な行為の循環的な反復と再生産は、個人の水準での微妙な差異を生む。行為がどんなに規範化していたとしても、個の水準の差異の産出を抑止することは不可能だ。ズレはかならず産出されなければならない。

このズレを特に意識せず、「どうにもならないくせのようなもの」として漠然として捕らえている限り、それは「その人間の味」になり、それを個人のユニークさの源泉として強く対象化すると「自己認識」にいたるだけの話だ。

にもかかわらず、個を前面に押し出すこうした積極的な「らしさ」は、つまりは第三の「らしさ」は、社会規範への一体化を前提に発現するズレとしての第二の「らしさ」しか許容できない日本型のシステムでは、基本的に許されないものである。個人が自分の流儀にしたがって行動すると、それは「わがまま」とみなされ、規範からの逸脱行為として排斥されるか、社会化が十分に行われていない「半人前」としてまともな扱いを受けないかのいずれかであった。いずれにせよ抑圧されたのである。

再度確認するが、「ユニークな個」が徹底的に排斥された理由は、日本型のシステムが行動や出来事の予測可能性を脅かすあらゆる要素を管理し、管理できないものは異物として外部へと放出する傾向が強いからである。だから、個が自らに見いだす意味を前提に行動する自己定義型の振る舞いは、当然、排除の対象になる。なぜなら、個の自己定義的な意味に基づく振る舞いは、社会の規範が認可した意味とはまったく異なり、予測が不可能だからだ。それはまさに「勝手に」「自分の独りよがり」で作られた幻想としか見えないのである。それを同じ規範的システムの内部にいる他者に共有を迫ることはルール違反のなにものでもないと見えたとしても不思議ではない。それは徹底した抑圧の対象となった。

だが、そうだとしても、抑圧してすべてが丸く収まるわけではないことは誰に目にも明らかだ。もし「個のユニークさ」を積極的に希求する欲望が普遍的なものならば、抑圧された欲望はそう簡単には消滅しないはずである。それは個人の心の地下水脈のように、決して実現されない見果てぬ夢の地帯を個の内面で形成する。

80年代のバブル期から始まる安定した生活世界が崩壊した背景には、この抑圧され続けた夢の爆発があったことは間違いない。私たちの生活世界の変質はコントロール不能な外部の要因によってもたらされたというよりも、自らの存在に積極的な意味を与えることがついぞ許されなかった日本人自らの手によって解体されるはめになったのだ。これは後述する。

管理された消費領域

本体資本主義システムの消費領域は、多様な商品記号を組み合わせ、個人が自らのユニークさを前面に押し出すことが許された自由な領域であるはずだ。この意味で消費領域は、社会システムの他の領域では決して許されなかった第三の「らしさ」が、十分に表出されることを許された唯一の領域であると考えることができる。

経済成長と所得の増大は消費領域の拡大をもたらした。消費領域は商品記号の組み合わせによって自らのアイデンティティを比較的自由に変更することができる。いわばコードを変更する自由が与えられているのが消費領域である。

コードの変更は、他者との差異を商品記号の組み合わせを通して押し出す運動によって開始される。個々の消費者のレベルで産出されたいわばパロールとしての記号の新たな組み合わせは、そのまま商品化され、製品として市場に出回る。記号の、企業による組み合わせの提案と、それを脱構築する個々の消費者の差異化運動とによって、コードはめまぐるしく変化し、誰も予想できない無規定な方向へと拡散してゆくのは消費領域の特徴である。

この意味で消費領域は、生活世界が外へと押し出した外部的な領域として存在している。それは固定化された生活世界の管理されたコードには属さない領域と考えられた。だから、この領域であれば、個人をユニークな存在として積極的に追求する行為は、商品記号の組み合わせというかなり限定された手段を通してであっても、実現できたと考えねばならない。

だが、消費領域のこうした側面がはっきりと前面に出てくるには、生産の方法が多品種少量生産へとシフトし、商品が記号として確立され、それにより消費領域の生産するコードが生活世界のコードから相対的に自立するようになってからのことだ。これ以前、すなわち人生の予測可能性を最重要視した終身雇用の生活世界の編成(第一と第二の「らしさ」の世界)が支配的な状況では、消費領域も生活世界の中にがっちりと組み込まれ、それが本来持っているコード変更の自由も潜在的な可能性に止まるほかなかった。もともと消費領域は自立していなかったのだ。それは生活世界によって管理されていたのである。

管理された消費領域では、個々の消費者の消費行動は、商品記号の自由な組み合わせではなく、生活世界ですでに固定化されている個のアイデンティティーを再生産する方向で行われるほかはない。個のアイデンティティーはすでに第一の「らしさ」として生活世界の中に強固に固定されているが、消費はこの「らしさ」を目に見える形で外に向けて表出する行為以外の何者でもなかった。例えば「トヨペットの営業マン」であれば、選択できる服装はおのずから制限されるだろう。トヨペットの営業マンにふさわしいと考えられた範囲に商品の選択は限定されていなければならない。万が一、個人がそうした規制を逸脱し、個人の趣味を基本に服装を選んだとすれば、それはすぐさま「らしくないもの」、すなわち「異物」として排除されてしまうだろう。商品記号の組み合わせによるコード変更の自由という本来の消費領域にある特徴は、安定した生活世界では存在する余地は少なかった。

さらに、こうした消費領域のコードの管理は、生活世界を構成するあらゆる状況に及んでいたと考えねばならない。職場のように、個人の社会的なアイデンティティーが問題となる状況に限定されていたわけではないのだ。「らしさ」を表示するための消費行為は、生活世界の趣味のあらゆる側面に及ぶ。日本では、それはプルデューの「ハビトゥス」の概念が示すほど細分化はしていないが、休暇の過ごし方、服装、趣味、住宅、インテリア、車、レストランなど生活世界の消費行為の広い範囲を包含していた。

第一の「らしさ」の消費がプルデューの「ハビトゥス」と大きく異なる点があるとすれば、それはこの消費が、他の階級との差異をことさら強調するための示威行為として行われたのではなく、当人は無意識であったとしても、個人やその家族が終身雇用をベースにした日本型システムの正当なメンバーたり得ることを表明するために行われたと考えられる点だ。これは、どんな状況においてもその個人が「社会人」として「きちんと」しており「ちゃんとした」行動を取れる人間であることを示すものであった。社会が細かく階級に分化しておらず、大多数の人間が自分を中流として考えていたかつての日本では、消費領域も階級別に分化しておらず、「きちんとした人たち」がみんなで共有する一般的な基準が存在していたにすぎない。

こうした標準的な消費行為のイメージが多くの人間によって広く共有されることは、消費行為を規範化させた。「ゴルフ」や「カラオケ」それに「麻雀」や「飲み会」「野球」が好きであろうが無かろうが、さらに「朝日新聞」や「NHKの番組」が好みに合おうがなかろうが、「ちゃんとした」行動を取れる「社会人」のたしなみとしてなんとしても消費しなければならなかったのである。このような消費行為を行わないことは、その個人は人間関係から孤立した。そのような個人は「きちんとした社会人」に当然期待されるべき話題にはついて行けないからだ。

消費領域が第一の「らしさ」の表出にしかならない状況では、第三の「らしさ」を希求する欲望はやはりこの領域でも抑圧された。それも徹底的に。その意味では本来はコードの自由な変更可能性を特徴とする消費領域も、社会的アイデンティティーが固定化した「職場」のような生産的主体の存在する場とさほど違いはなかったのである。

E.システムの解体と潜在的な怨念

システムの解体

さて、これまでわれわれの生活世界の安定した側面を見てきた。それは、一言で言うと、われわれの日常生活のあらゆる側面が、生活世界の規範にがっちりと絡み取られ管理された世界であった。

しかし、社会的主体を担うことを止め、場面のルールを無視した社会化されていない個人が一般化されつつあるいま、このような安定性は望むべくもない。部分的にはともかく、かつての生活世界のありようは消滅しつつある、といっても過言ではないだろう。日本型資本主義システムの三つの共同性はもろくも崩れ去り、われわれが長い間親しんでいた生活世界の構成も大幅に変化したのだ。

まず、バブル以降の長期の不況で終身雇用制は崩壊に向かい、企業共同体は崩壊した。その結果、これによって維持されていた学校共同体は教育の目標を失うことによって機能停止に陥った。さらに、容赦のない競争原理の導入による賃金低下の共稼ぎが必然化したため専業主婦のネットワークが分解し始めた。

さらに、族議員、業界、官僚など、既得権益の享受者のインフォーマルな人間関係に依存した所得再分配システムの際限のない腐敗が次々と露呈した。これがシステムの崩壊をさらに早めた。遅くとも90年代の後半には、戦後のシステムは機能不全に陥っていること、そしてすでに制度疲労は限界にまで達しており解体して新しく再構築する以外に方法がないということは、人々の広く共有された了解事項になった。人々はシステムに対して怒ったのである。

一方、われわれの生活世界を背後から物質的に支えていた柱の一つがこのシステムであったのだし、このシステムの所得再配分機能なくしてわれわれの生活の安定は期待すべくも無かった。システムはとてつもなく腐敗していたが、同時に当事者間の談合で配分された公共事業にぶら下がることで多くの人の所得が確実に確保されていたのも事実である。

ところが現実のこうしたヤヌス的な側面な理解されることはなかった。当然、その後にどんなシステムが構築されるべきか明確なビジョンがあったわけではない。より透明で、市場の合理性が貫徹した理屈にあったシステムに置き換えられるべきだと漠然とイメージされていたにすぎない。そのため、このシステムは諸悪の根源のようにいわれ、噴出する怒りの生け贄に選ばれた。これがシステム解体の時期を早めた。

潜在的な怨念

しかしながら、われわれはある事実に気づかねばならない。この消滅を引き起こした力の一つは、われわれの自身の中にあるこの社会システムに対する怨念だったということだ。生活世界の安定性は、外部の変動要因だけによって崩壊したわけでは全くないのである。

確かに、システムの腐敗に対する強烈な怒りや、さらにその後5年という長期にわたって継続した小泉政権のきわめて市場原理主義的な傾向の強い構造改革、それとともに進行した過度にグローバリゼーションに適応した企業による過剰なリストラなどの要因が、規範の崩壊に作用したことは疑いない。

しかしこうした要因も、これと連動し内部からそれを支える動きがない限り、社会的な方向性を形成するにはいたらないはずだ。

ということは、やはり多くの日本人にとって、第三の「らしさ」への希求は押さえがたいものであったのだ。これが、「個性化」といわれるどんな人間も持っている普遍的な欲求と考えるならそれも納得がゆく。その意味では、生活世界にとことん組み込まれて、個としての本来的な「らしさ」を剥奪された多くの日本人は、それぞれが個へと分化する内発的な契機をすでに持っており、その機会を待ち望んでいたといってもよいのかもしれない。

F.日本的な「個」の実態とその諸相

規範からの自由への待望はあまりに強烈であった。それゆえ人々は2001年の小泉政権の誕生を、窮屈な社会規範の解体者の誕生として歓呼して迎えたのだ。ましてやそのシステムは、目に余るほどの腐敗をみせていたのだからなおさらである。その歓喜の声は2005年の総選挙まで続き、2006年のいまもかつてほどではないにしても継続している。

しかし現実はわれわれの想像をはるかに超える厳しいものであった。確かに社会規範を解体する端緒はわれわれの内発的な動機が与えた。だが実際の過程としての「個」の析出は、内発的な欲求があろうがなかろうがおかまいなしに進行する暴力的な過程であった。

異論もあろうが、小泉政権はその公約である構造改革を確かに実現したとみるべきだろう。改革の目標は、戦後日本の成長・生活保障型システムを市場原理が支配するシステムにアングロサクソン型の置き換えることである。

日本種本主義システムの支柱となっていた要素はすべて、「官から民へ」「構造改革」「民間の出来ることは民間へ」「ぶっ壊す」など空虚なスローガンのもとでその破壊が進行した。

労働者派遣法の改正は、事務労働、製造業、医療、研究開発などこれまで正社員の雇用が義務づけられていた広範な領域を派遣労働に開放した。この結果、従業員は会社が丸抱えで面倒をみる対象ではなくなった。従業員は景気の変動に合わせて自由に雇い入れまた解雇できる労働者にすぎなくなった。戦後日本の資本主義システムのもっとも重要な柱の一つであった終身雇用制は、ここに放棄されたのである。

これと同時に、政府主導の公共投資政策、護送船団方式によって政府が保護したメインバンク制に基づく日本型の金融システム、さらに地方交付税や予算の配分を中心に組み立てられた地方への所得再配分のシステムなど、日本の高い経済成長を安定的に支えていた戦後日本の機構は、「官から民へ」をただひたすら叫ぶ小泉の「構造改革」によってもろくも崩れ去った。

当然、これらの機構が腐敗していたことは言うまでもない。だがこうした機構によってこそ、危険度を最小限に押さえたわれわれの生活世界が成立していたこともまた事実なのだ。小泉改革はまさにわれわれの生活世界を破壊した。

@「個」の暴力的な析出

これは好むと好まざるにかかわらず、われわれが受け入れなければならない現実である。その意味では、われわれが「個」となる契機をただひたすら待ちこがれているだけの時期はすでに過ぎ去ったとみるべきなのだ。「個」に憧れる時期は、90年代後半で終わっていたのだろう。5年続いた小泉政権以後のわれわれは、はるかその先にいる。安定した生活世界の崩壊は、あらゆる人が、望むと望まないとにかかわらず「個」として析出されてしまう状況を作り出した。「個」の析出は、すでに社会のあらゆる領域で始まっており、もはや後戻りができない地点にまでわれわれは来てしまっている。

子殺しや親殺しなどいっそう凶悪化する事件、ネットで仲間を見つけあたかもゲームをリセットするかのように行われる集団自殺、もっとも厳格な職業倫理と規律が求められる職業についているものが犯す常軌を逸した不祥事、出会い系サイトで相手を見つけるネット系の殺人など、まさに現代を象徴するこうした犯罪を形容する言葉があるとするなら、それは社会規範の流動化という言葉であろう。

これはよく耳にする聞きなれた言葉である。しかしその内実が示唆するものは生やさしいものではない。共同性の解体を受け入れ、われわれが社会規範の大幅な変更を受容するもともとの契機が「第三のらしさ」の追求であったとしても、実際に目の前で進行している生活世界の破壊の事態は、この言葉が簡単に使えなくなるほど暴力的なものだ。

200万円に満たない年収で働かざるを得ないワーキングプア、健康保険を止められ病院にも行けない世帯の激増、障害者支援法という美名の悪法によって援助を大幅にカットされ路頭に迷う障害者、受給年金額の削減により生活が破綻し、自治体から水道まで止められ餓死してミイラ化する高齢者、政府の公式発表だけでも毎年3万人を超える自殺者、リストラとローンの自己破産からいきなりホームレスになった中高年の群れなど、日本ではすでに戦前の遠い記憶に埋もれてしまっていた事態がいま目の前で進行しつつある。

これが、「個のらしさ」を犠牲にし、腐敗を許し多少窮屈であっても生活の安定と富の再配分を保証していたシステムを放棄したあとにやってきた状況だ。それは一言で言えば、「個」の暴力的な析出ということである。つまり、共同性とそれを前提に成り立っていた生活世界そのものがぶっ壊れ、一人一人が無理矢理、いやがおうでも「個」にさせられてしまう状況なのだ。

近年の激増する犯罪の背景にこうした事態があることは間違いない。個人の内面で、サバイバルのために許される犯罪の閾値がはるかに低くなっているのだ。生きてゆくためには多少の犯罪行為はしょうがないということである。

Aあらゆる抑制がはずされることによる解放感

反面、「個」の暴力的な析出は、こうした悲惨な現状とともに、日本的な「個」とでも呼べるようなもう諸相を生んだ。当然、基本的な社会規範の瓦解は、厳しい規範から自由になった個のありかたをも示しているからだ。このような個も自由な個人であることには違いないのである。

しかし、この自由は、自己の行動を自らの責任で主体的に統率し、自分で設定した目標の実現を一人で目指してゆくような自己実現型の合理的な個では断じてない。反対にそれは、情意や欲望の際限のない発散を許容し、これらの表出の障害となる一切のものにたいして敵対的に反応する個のありかたであろう。いわばそれは情意の開放ともいえるようなものだった。

これが解放感をもたらしたのも、長い間われわれにとって社会生活は、実に窮屈な逃げ場のない束縛の場所として感じられていたからだろう。どの社会的な場面でも、まずわれわれが遭遇するのは他者の厳しい監視のまなざしである。立場に順じた振る舞いをしているか、言動はどうかいつも他者の厳しい審査を受けていると感じていた。そのような状況では、社会生活のどの場面でも自分の振る舞いにたいする他者の期待感を察する敏感さが要求されてくる。

だがこれははっきりいって疲れる。いわばこれは永遠にはずすことのできない仮面をいつも装着していなければならないようなものなのだ。これをはずすことが許されるのは、そのような他者が存在しないか、一切の立場を気にかける必要がない、本当に気心の知れた相手しかいない完全に私的な領域のみである。

この意味では、私的な領域はわれわれにとっての唯一の逃げ場所だった。自宅に人を呼びパーティーなどをすることはめったに行われないし、居住している地域での積極的なボランティア活動もあまり活発ではない。要するに、何らかの社会性を要求する活動はわれわれにとっては疲れるのである。それらを私的な領域に積極的に取り込むことは、できるだけ避けたいのがわれわれの本心だ。

逆に、明確な立場のルールが存在しない電車のような匿名性の高い空間ではわれわれは凶暴になる。そこで出会う「人」は立場を持たない他者である。また自分にも立場という主体は付与されない。われわれにとって立場を持たないということは、その「人」は何者でもないということだ。そこで偶然に出会う他者は、こちらが敏感に気持ちを察し、自らの行動を調整する対象には絶対にならない。何者でもないものに対しては、適用する規範もなければ行動の原則も存在しない。公の場面では周囲に気を使い、自分の本音を表すことのない個人が、電車の中では傍若無人に振る舞いいきよい凶暴になるのもこの理由からだ。

長い間われわれは、生活時間の多くを占める規範的な公の場面と、その後背地にわずかばかり残る、いわば外部に排除されたかのような私的な領野という、それぞれまったく異なった2つのエリアの間にはまりこんで動きが取れなくなっていたかのようだ。

このような状況におかれたわれわれにとって、どんな場面でも個人として振る舞うことができるということは大変な魅力だった。規範の緩みがまず意味したのは、個人の情意の抑制のない解放感だったのだ。

C露出する情意

生活世界の場面ルールの支配から解放され、情意表出の自由を手にしたものにとって、他者とのコミュニケーションはもっとも著しく変質する領域だ。

言うまでもなく、生活世界の社会規範では、あからさまな情意の表出は強い抑制の対象であった。公のどんな場面でも「らしく」あることが要求されたからだ。与えられた場面と立場にそぐわない情意の表出は謹まなければならなかった。課長はたえず課長らしく部下を叱り、新卒の社員は若者らしくはきはきした態度でいることが当然とされた。他者の期待値を越える感情の表出は、信頼できる人間の態度としてははばかられ、排除の対象となることは当たり前だった。

このような状況でも許される個人的な情意の表出方法は、先に述べた「第二のらしさ」のそれである。だが、規範からのずれとしてのこの表出の形は、規範への徹底的な同一化を前提にして始めて成り立つ。これがここでいう感情のあからさまな表出とは基本的に異なることは言うまでもない。それは、立場への同一化の過程で必然的に生まれてくる影のようなものだ。

それに対し、規範の緩みがもたらす情意の表出はいままでにはない直接的なものになり得る。規範からの解放は、場面内で確定している立場のルールに振る舞いが束縛されないことを示す。われわれはこれを、強い解放感をもたらす新しく獲得された自由として歓迎した。おおげさな言葉で本音をぶちまけるバラエティー番組のコメンテイター、いつもタメグチで話すことのできる教師、友達のような親子など、かつての立場の相違がとても希薄になり、情意を直接的な表出すればするほどよしとされた。立場の相違を無視した態度が、本音の率直な表現として讃えられたのだ。情意の抑制は外された。

D意味の絶対的な直接性

それだけではない。「個」の情意の解放は、もっと大きなさらなる変化を準備した。ものごとの意味づけの原則が基本的に変化したのだ。あらゆるものの意味づけは、快楽原則とまではいわないが、単純な情意の原則に還元されるようになった。喜び・悲しみ・気持ちよさ・気持ち悪さなど、要するに、情意の対象となるかならないかがものごとに意味を付与する唯一の原則になるということである。つまり、情意原則の一般化という事態だ。

これは言い換えると、言語を含むあらゆる記号が内包する必然的な特徴である意味の間接性が否定され、対象との同一化の体験をいっしょに共有するというはるかに直接的で身体的なコミュニケーションが一般的になるということを示している。


▽意味の本来的な間接性

言うまでもないが、コミュニケーションとはメッセージの交換のことである。メッセージに込めた意味は、話し手が言語記号を組み合わせることで相手に伝わるようにできている。話し手と聞き手が同じ言語文化を習得しており、意味を産出する文法のような規則を共有しているならば、意味は自ら伝わるだろう。

もちろん意味産出の規則は文法だけにはとどまらない。いやむしろ文法は意味産出の最低限の規則を定めるものにしかすぎない。文法が基本的におかしければ、もっとも基本的な意味さえも伝わらないというだけのことだ。

文法を基本としながらも、その上にはそれぞれ異なった状況や文脈に合わせた規則が存在している。お馴染みの場面ルールも「立場」に合わせた意味産出の規則であると考えることができる。「立場」は「らしさ」を作り出すが、これが可能なのは、話者が「社長らしい」と感じられる発話を産出する言語記号の組み合わせのみを選択し、それ以外を排除するからだ。聞き手も同じ規則を適用して話者の話を聞いているならば、同じく「社長らしい」と感じるだろう。規則の共有とはこのようなことだ。

さらに、気心の知れた仲間や恋人、夫婦や家族、またクラブや職場のように、限定された集団の限られたメンバーの間だけで共有される意味産出の規則も数多く存在する。規則を知らない部外者がこうした人たちの仲間内の発話を聞いたとしても意味は分らないだろう。発話の意味は仲間内の規則を共有するものだけが理解できるからだ。

このように、集団、状況そして文脈に応じて多種多様な規則が重層的に折り重なるようにして出来上がっているのが記号の意味産出の現場である。それは文法のような一般的な規則に還元できるものではない。はるかに複雑な構造体である。

ただ、こうしたすべての規則が成り立つためにはある条件が存在している。それは、われわれが「私」と「あなた」というものにならなければならないという事実である。これがどういうことか説明しよう。

メッセージの交換が成り立つためには、メッセージの送り手である「私」とメッセージの受け手である「あなた」という立場にコミュニケーションに参加するものたちがあらかじめ分れていなければならない。そうしないとメッセージの送りようがないからだ。「私」が「あなた」に向けてメッセージを発信するのがコミュニケーションの基本だからだ。当然「あなた」であった人が、「私」であった人に向けて発話するときはこの立場は入れ替わる。今度は「あなた」は「私」となり、「私」は「あなた」となる。ただここで重要なことは、記号の意味産出は、話し手と聞き手に主体が分裂して初めて作動するシステムだということだ。

これは当たり前のように見えるが、思った以上に重要なものである。なぜならこの条件は、記号を用いたすべてのコミュニケーションが持つ基本的な限界と限定性を示しているからだ。

このシステムが「私」と「あなた」の立場の分裂をいつも措定しなければならないということであれば、記号によるコミュニケーションは「私」という立場でしか意味を送信することはできないという絶対的な限定性を内包していることを示している。

これはつまり、記号を用いたコミュニケーションで産出される意味にはあくまで間接性という特徴がつきまとっているということだ。「私」と「あなた」が何のずれもなくまったく同じ意味を理解するなどということはまずありえない。なぜなら、ここで産出される意味は「私」の発話として構築せざるをないため、メッセージの受け手である「あなた」も、文法などの共有されている意味産出の規則を適用して「私」の発した意味内容を理解するようにつとめる他はないからだ。そこにあるのは、メッセージの発信→規則の適用→意味の理解というしごく間接的なメカニズムだ。したがって、メッセージの意味がどれだけ正確に相手に伝わるかは、「私」の側の記号の組み合わせの能力と、「あなた」の側の意味の読み取り能力の程度に依存する。これらにすこしでもずれがある場合、両者のあいだで解釈と理解に当然相違が出てくるだろう。両者が細部まで一致するなどということはありえないのだ。

▽「私の本当に言いたかったこと」は伝わらない

さらに、意味のずれはこれだけに止まらない。ずれは「私」と「あなた」の間だけではなく、「私の話したこと」と「私が本当に言いたかったこと」の間にも存在している。むしろコミュニケーションではこちらのずれのほうがより本質的だ。

何かを話すと「自分が話したいことはこんなことではない。もっと他のことだ。」との思いが残ることはよくある。どんなに言葉を尽くしても本来言いたいことの半分も伝わらないことをむしろわれわれは当然と考えている。

表現された内容と本来言いたいこととの齟齬が生ずるのも、われわれがコミュニケーションに記号を用いているからだ。それは、「私」が表現したことと「あなた」の解釈が完全に一致しないことと同じ理由による。つまり、言語記号を用いて意味を表現するとき、意味は、文法のような記号の組み合わせの規則を通して表現せざるを得ず、したがってどれだけ適切な意味が発生するかどうかは、記号の組み合わせのうまさという表現内容とは直接関係のないテクニカルな能力に依存するということだ。記号表現の力がよりあるものは、記号を適切に組み合わせることができるので、表現したい内容により近づいた意味を産出できるだろうが、反対にこの能力がないものは、より限定された組み合わせで満足せざるを得ず、その結果、本来表現したい内容と産出された意味との大きな齟齬を経験することになる。

しかし、記号を操作する能力があるからといって意味のずれがまったくなくなるかといえばそんなことはまったくない。むしろずれの実感が拡大することのほうが多い。

記号表現が巧になるということは、表現がより細かく微細になるということである。それにともない、意味内容もはるかに具体的で豊かなものになる。だが、その反面、これにしたがい、表現したいと思っている対象の意味ははるかに具体的に規定されるようになる。そして意味内容が具体的に規定されるということは、その対象から余分な意味が排除されることをも同時に示す。

たとえば「日本のマネージメントは非効率なので、効果的な戦略を出せないでいる」という表現と、これよりもはるかに具体的で細かい「日本のマネージメントは、プロジェクトにかかわっているすべての人間のコンセンサスを取るため、意志決定に長い時間がかかってしまうという意味で非効率だ。このため、新しい戦略が出る頃にはビジネスの環境が変化してしまっており、彼らの新しい戦略も時代遅れになっていることがよくある。」という表現があったとする。ここでは、「日本のマネージメントは非効率」が「プロジェクトにかかわっているすべての人間のコンセンサスを取るため意志決定に長い時間をかけるという意味で非効率」と具体化され、「効果的な戦略を出せないでいる」であったものは「新しい戦略が出る頃にはビジネスの環境が変化してしまっており、かれらの新しい戦略も時代遅れになっているケースが多い。」と詳しく説明されている。

当然、詳しく説明された後者のほうが意味がより具体的な分、何を言いたいのかはるかに明確だ。後者がよいに決まっている。

だが、これとまったく反対のこともいえるのだ。「日本のマネージメントは非効率」との発話には、それがどのような非効率性なのか具体的な説明は一切ない。それだけ発話の意味は漠然としているといえるだろう。しかしこの漠然性は逆にみると、あらゆる意味の非効率性を同時に含んでしまえる多義性をも指している。ここには必ずしも後者のようにそれがどのような効率性か特定化する必要はまったくない。とりあえず意味を漠然と規定しておけば、あらゆる内容の非効率性をこの一つの語に込めてしまうことができる便利さがある。

これは、後者のように細かく意味を定義した発話とは対照的だ。後者の発話には前者にはない具体性がある。何を言いたいかははるかに明確だ。だがその反面、意味が明確なだけに、「非効率性」のこれ以外の意味を盛り込むことはできない。発話の内容は限定されてしまう。

したがって、どちらの場合でも「私」が本当に言いたいことは完全な形では言えないことに気づかざるを得なくなる。意味の多義性を維持した前者の発話では意味を細かく説明することは断念せざるを得ないし、また後者の具体的な発話では、意味を限定せざるを得ないため他の意味内容の排除が行われてしまうということである。つまり、本当に言いたいことすべてを表現しようとすればどちらの方法でもすべてを表現しつくすことはできないのだ。これは実にもどかしい。だがこのもどかしさは、意味の間接性をこととするすべての記号表現にまつわる本質的なものなのだ。それは簡単には飛び越えることはできない。「私」の言いたいことは完全には伝わらないのである。

われわれはコミュニケーションをするとき、意味がこのようにずれることを当然だと思って生活している。誰かと話をする場合、自分の感じていることが相手に完全に伝わるとはまったく思っていない。記号で表現している限り、自己と他者の間には乗り越えがたい断絶が存在している。このことは、われわれが生きる上で受け入れなければならない厳粛な事実である。

▽情意が記号を生み出す二つの表現スタイル

ところで、少し前われわれは、場面ルールの崩壊による「個」の情意の解放によって、ものごとが情意の対象となるかならないかがものごとに意味を付与する唯一の原則になってしまうことを確認した。これが情意原則の一般化という事態だった。ならばこれは、記号のこのような性質をどのように変質させるのだろうか。

もはや答えは明白であろう。それはコミュニケーションが根源的に内包する間接性を、「情」の共有によって一気に乗り越え、記号を根源的に変質しようとする運動となって現れる。これは二つの相互に異なった表現のスタイルによって実現される。

一つは、意味の理解や解釈の必要性もないくらいに直接的な記号を用いることである。

大量の絵文字の使用を含んだ携帯メールや、一瞬の表情を撮った写真や動画はこの代表的な例だろう。これらは、意味内容を直接表現するためのツールである。それは、記号をいちいち組み合わせて意味を産出するという煩わしい操作を経ることなく、他者と瞬間的に「気持ちが通じ合える」ための手段となる。そこにはどんなコミュニケーションにも当たり前の、事後的に調整されるべき理解(意味)のズレは存在してはならない。なぜなら「意味を理解する」という、どんな記号表現にもある本質性がここでは否定されているからだ。絵文字や写真が表しているものが直接的なだけに、それを見た者は、同じ気持ちを瞬間的に共有することが期待される。「気持ちが通じ合う」とよく言われるが、こうした記号こそ、同じ気持ちになったという一体感を醸し出す理想的な手段となる。

そして二つめは、記号表現から意味の具体性をすべて抜き取り、徹底的に抽象化することだ。

発話の新しい表現方法がその例である。例えば、「彼っていいよね」と言えば「そうだよね。彼っていいよね」と答えるように、意味をいっさい具体的に規定することなく表現するやり方がこの方法だ。ここまで漠然としていれば、実際には「彼っていいよね」の内容が相互にかなり異なっていても、どんな意味内容でも一言でくくってしまえる。これで、意味の理解のずれが生じて解釈の必要性が生まれてくる余地はなくなる。これにより、あたかも同じ体験が完全に共有されているかのごとき幻想が作り出され、前者と同じ一体感を醸成する。

このような二つのやり方を通して、記号の意味の本来的なずれや間接性は否定され、記号は直接、それも一瞬のうちにまったく同じ内容の「気持ち」を共有するための手段へと変質してしまう。直接性と瞬間性が記号の第一の性質になったのだ。これらの操作を通して、記号は、どんな意味でも入れることのできる巨大な内容のない入れ物になる。

▽情意のバブルに住む

このような、一切のずれのない「気持ち」の一体感はあらゆる人間関係で要求されるようになってしまった。それは一言で言えば、すべての媒介を廃した体験の直接的な共有とでも呼べるものだろう。人間関係では、一瞬のうちに同じ気持ちを共有するという類い稀な能力が、期待されるようになったとみてよい。

このような状況では、ものごとを類推したり分析したりするような思考作業や、対話の中で共通のテーマを語り合い、そのテーマの様々な意味と側面を明らかにしてゆくような知的な行為は、「分かり合えてしまった」直接性からみるといかにも色あせるのである。意味の間接性は「うざい」以外のなにものでもなくなってしまう。理解のずれは、簡単に乗り越えられるちょっとしたエラーかミス程度のものでしかない。少しでも解釈や理解を要求するものは「ノリが悪い」ものとして排斥されるのだ。

そしてこの結果はなんであろうか。それは、ものごとの意味が情意の及ぶ非常に狭い範囲へと還元されるだけではなく、直接的に体験されるものや一体感を味わえるものに限定されるということだろう。つまり、逆に言うと、情意を通して直接的に体験できない対象は、世界には存在しなくなるということだ。

考えてみると、これは恐ろしいことである。これは、周囲のすべての対象が、それが北朝鮮の核実験や耐震性偽装問題などの社会的な話題であっても、また友人の言った一言や恋人の一瞬の表情の変化のようなほんの身近な出来事であったとしても、それらの間には何ら違いが存在しないことを意味する。情意の対象としてそれらが直接的に体験できる対象という意味では違いが存在せず、すべて等しい価値を持つからだ。われわれの周囲には、情意の投影ができて一体感を感じられる対象とそうではない対象とがあるだけなのだ。むろん、後者は存在しないも等しい。